読後記-第一阿房列車

「第一阿房列車」を読み終えた。明日から何を読んで暮らせば良いのだ。面白い本を読むときはいつもこれだから仕方がない。どんどんページをめくるのは良いが終わりが近づくにしたがって楽しみでもあり寂しくもある。こうなったらもう第二阿房列車も第三阿房列車も読む以外にあるまい。このようにして僕は自分が好きになった作家は手に入る本を端から読まないと気が済まないブルドーザー型読者であったことに気がつくのであった。
しかし百けん先生の本は図書館で探したら山程見つかるだろう。調べてみたらこの文庫本5冊分程度で1巻として全集が10巻ある。流石にこれに手を出したらちょっと大変なことになるな。そういう義務感で読むのはよろしくない。気が向いたら制覇の旅に出るかもしれないけど制覇してしまうとそれはそれでまたつまらなくなるので止そう。そもそも(この接続詞よく使うな)全集というのは便利だけれどもそうやってまとまってるのははなはだ面白くない。これがこの人の全てですって言ってどんとそこに置けるほどコンパクトにまとめてしまってはいかん。あっちへちょこちょこ、こっちへちょこちょこ散在したままにしておく方がその人の活動の幅広さや人間的スケールがわかるというものだ。それを一箇所に並べて目録を作ってしまうのは早送りで映画を見て見た気になっているようなものではないか。よって全集というものは研究者が時間を無駄にしないようにするためにのみ存在するべきである。え?何?始めからそのためのものだろうって?

夕食はどうする

ふと後ろを振り返って外を見ると、ほんの数分前に比べてやけに暗い。雨が降っているようだ。困ったことにまだ夕食の買い物に行っていない。家には料理が作れそうな食材のストックがないし、そもそも台所は昼にパスタを作ったままになっているので片付けるのも億劫だ。コンビニでレトルトのカレーでも買って来ようか。でもこういうときのためにコンビニではレトルトカレーを高いまま売っているようなものだからそれを買いに行くのはちょっと悔しい。駅前のスーパーへ行くのは寒いし雨降ってるしもっと嫌だ。そしてごはんを食べないわけにはいかない。これは絶対である。八方塞がってきた感があるな。如何ともし難いところだ。この状況を打開するためには全知的リソースを費やすしかない。さて、どうする。

全知的リソースを費やした結果名案が思い浮かんだ。面倒臭がらずに台所を片付けて買い物に行ってこよう。

面白山

内田百けん先生の「第一阿房列車」を読んでいたら面白山という名前が出てきた。一体何がおもしろくて面白山と呼ばれているのかと思ったのだけど、考えてみれば東北の話なので雪が降って面(つら)が白い山で面白山なのだろう。いつも面白いと書いて使うのでつい習慣に騙されてしまう。

と思いながらも少し調べてみると、確かに面が白い山の意もあるのだけど山中の滝の様子が面白いから面白山という由来もあるらしい。でも多分この面白いは「趣がある、風流である」という意の古語だろうからやっぱり現代語的に面白いわけではないようである。笑える話を期待した僕が低レベルであった。

第一阿房列車 (新潮文庫)

第一阿房列車 (新潮文庫)

welcome to Japan

甥(兄貴の息子)のところにオーストラリアからホームステイに男の子がやってくるらしい。この夏に甥がオーストラリアにホームステイに行ったので、今度は向こうからやってくるのだと聞いた。うちの実家にも訪れる予定らしいのだけどうちの両親は英語が全く話せない。その日だけ僕を招喚するかという話になったらしいのだけど、残念ながら僕も英語は大して話せない。そもそも僕は男の子には興味がないので呼ばれても帰らないつもりだった。女の子だったら今から英会話の猛練習をして呼ばれなくても帰っていたことは言うまでもないことであるが。その方が僕の英会話のためになったかもしれない。まことに残念なことである。

取りあえず両親には、彼ははるばるオーストラリアからやってきて右も左もわからないのだから、持て余して居心地悪くさせないように甥に通訳してもらって積極的に話しかけてあげるようにと言っておいた。うちの実家にはすきやきを食べに来るらしい。日本食通なのだろうか。いずれにせよ男の子にはそれほど興味はない。女の子だったら僕が帰って肉じゃがを作ってあげたことは言うまでもない。でもそんなことをしては迷惑だから、男の子でやっぱりよかった。

雨の合間に

さっきまで降っていた雨が止んだようだったのでコンビニに出かけた。すぐそこまでと油断して、うっかりジャケットを着ずに外に出たら思いの外寒い。昨日は小春日和で暖かかったのにえらい違いだ。コンビニに震えならが入ると中も寒い。暖房節約だろうか。結構なことである。しかしジャケットを着て来なかったのは失敗だ。
買い物を済ませて部屋に戻るとさすがに中は暖かい。昼に作ったペペロンチーノのせいでにんにくのにおいがする。にんにく代も馬鹿にならない。こちらは節約しては旨い料理は作れない。スーパーも潤う。結構なことである。

お掃除フランス組曲

部屋の掃除をした。バッハのフランス組曲を聞きながら。演奏はアンドラーシュ シフ。フランス組曲を聞くのも考えてみれば久し振りだ。バッハの鍵盤音楽はいいなぁ。バッハ自身も鍵盤のグレートプレイヤーだったらしいし。ドイツ代表バッハとフランス代表何某がオルガン対決(だったよね)をすることになったとき、バッハの演奏を立ち聞きした何某が夜逃げしたらしいからね。

ところで、掃除と音楽とにはよく考えてみると共通点がある。「秩序」だ。掃除は部屋の秩序を回復するために行うもので、音楽は音と音の間に秩序を形成させるものである。部屋の中に存在するもの、例えば本、テーブル、コップ、テレビ、電気スタンドなどは、それ一つだけを取り出してみるとただそれだけのものである。どこに置いてあっても本は本で、テーブルの上、ベッドの上、本棚の中、どこに置いても本という性質が変わるものではない。部屋とはそれらの家具や文房具、書物という本来何の関係もないものに関連を与えて位置関係を決め、一つの秩序を形成させるものであり、掃除は崩れかけたその秩序を元に戻すことである。音楽も、音一つ一つはそれだけでは何の意味もないただの音であるが、前の音と後ろの音との間に置かれ、他の音と同時に出されることで秩序を形成し、楽曲になる。どちらも人によって秩序を与えられるただの思い込みである。演奏は音と音との関連性を表現するものに他ならず、この関連性を無視するものはキーが正しくても演奏にはならない。パソコンの自動演奏や動物の鳴き声を繋ぎ合わせたもののように。というようなことに考え至った。思いついたわけではない。僕の創見ではないことは確かだから。

刃物の落下に注意

最近どうもよく包丁を足元に落とす。その度に飛び退いて避けているので足を怪我したことは運良くないのだけど、よく見ると床にいくつか傷跡がある。きっとそのときのものだろう。足の傷は治るから良いが、床の傷は自然には治らないからいけない。どうせなら足で受ければ良いようなものだ。でも足の怪我は痛いのでやっぱり床に身代わりになってもらうしかないか。困った。ああ、良い解決方法がある。包丁を落とさなければ良いのだ。