社会における自然科学の役割

半分自分のためのメモなんだけど、だんだん考えがまとまってきたので整理しておこうかと思って。

科学技術という単語がある。一見1つの単語のようだけど、これを英語に直すとScience and Technologyになることからわかるように、本来科学と技術という2つの単語が合わさったものである。しかし実際科学と技術は不可分な存在であり、それ故にひとまとめに呼ばれることが多い。最近は技術指向が強く、自然科学の存在が軽視されがちだが、本来科学と技術とでは社会に対する役割が異なる。

どういうことかと言うと、技術が社会に対して短期的なトレンド(流行)を提供するのに対し、科学は長期的なトレンドを提供する。半導体を例に挙げて考えるとわかりやすい。例えばトランジスタダイオードは全て半導体の技術を利用している。PCの中を見てみても、様々な部品に半導体が用いられている。ここで CPUに注目してみると、Intelはここ数年間で、いわゆるムーアの法則に従ってCPUの能力を急速に高めてきた。そのため数年前の技術はすぐに時代遅れになってしまう。すなわち、技術革新の寿命はもって数年間ということだ。これは一種の極端な例だが、別に逸脱したサンプルではない。しかし、その技術の基礎になっているのは今も昔も半導体物理学である。これは何十年間も半導体技術の基礎であり続けている。つまり、自然科学である半導体物理学の寿命は技術よりもはるかに長いということだ。

このように、長期的なトレンドを社会に対して提供するのが科学の役割であると言える。そのようなトレンドをどのようにして生み出すのかと言うと、これは非常に逆説的で、自分の研究が社会に対して長期的なトレンドを提供するということを意識してはいけない。つまり役に立つかどうかは度外視して、とりあえず面白いから研究するという姿勢が結果的に役に立つものを作るという仕組みになっている。この姿勢はまさに、人類史を通して科学者が貫いてきた、そしてそのために彼らが周囲から白眼視されてきた姿勢そのものなのである。

では、なぜ役に立つことを基準にして研究を行ってはいけないかと言うと、その研究が社会に対して役に立つかどうかという問いは、常に現代の社会に対してということが暗黙の了解としてあるからである。未来の社会に対してという問いは、未来の社会というものをその時点では誰一人として知る人が存在しないのであるから、そもそもその問い自体が成り立たない。したがって、役に立つかどうかという基準で研究を行う人は常に現代の社会を基準にして研究の価値を計ることになるので、自然と近視眼的にならざるを得ない。それが意味のないことだと言うのではない。ただそれだけでは不足だと言うのである。

役に立つかどうかを度外視して研究を行うということは、当然役に立たないものを大量に作り出してしまう結果となる。しかしながらそうしなければ長期的なトレンドは生まれない。したがってそれは人類の未来に対する投資であると言える。投資だから無駄が生じるのは必然である。その無駄を人類は文化と呼んできたのだが、それはまた別の話なのでまたその内書くことにしよう。ともかく、その無駄なくして長期的なトレンドは生まれないのであるから、当然それを基礎にした技術も生まれない。自然科学を軽視するということは、現存する知が枯渇した後に掘り出すべき地下水脈を用意しないことを意味している。しかし、自然科学は今すぐ役に立つものを作り出しているわけではないので、利益重視の民間企業では研究できない(当然である。民間企業の存在意義と根本的に異なっている。)。したがって大学などのアカデミックな機関が必要となるわけで、人類は税金という形で自分達の未来に対して平等に(平等であるべき)、自分達の稼ぎの一部を投資しているのだ。これが大学でお金にならない研究のために、世のサラリーマンから絞り取られた血税から大金がつぎ込まれている理由である。そして自分が社会に対して提供したアウトプットとそれに対する収入が決して等価交換になり得ない理由の一つでもある。

つまり、今日開発したら明日から利用できるけど、明後日には捨たれているかもしれないものが技術で、今日研究しても明日役に立つわけではなく、いつか役に立つかもしれないけど、もしかしたらいつまでも役に立たないかもしれないのが科学だということだ。この2つは人類にとっては両方とも必要不可欠なものであり、しかもどちらか一方が欠けても立ち行かなくなるという性質のものなのである。