万葉集

よく考えてみれば、万葉集に載っている歌を現代の我々が理解することができるのってそれほど当たり前ではない気がしてくる。漢字、平仮名混じりで書かれると、理解できるという事実はそれほど不思議なこととはすぐには思われないけど、これが万葉仮名で書かれていて、それを解釈しろと言われたら、同じ日本語である事実に、現代の自分に理解できる事実に感動するのかもしれない。本居宣長古事記を解釈するときに感じた感動は、或いはそんな風なものだったのかもしれないと推測してみる。ただし、言語としての日本語を理解するという意味では確かに理解可能なんだけど、当時の歌が詠まれたリアルな感覚は失われて、既に取り戻せないのかもしれない。とは言え、その時代が遠い昔に過ぎ去った時間である以上、失われたかもしれない当時の感覚を取り戻すのは100%不可能なわけであるが、だからと言って現代の感覚で万葉集を感じることが意味のないことであるとするのは、あまりにも勿体無く、寂しい気がする。

まあ、そう言ってしまえば和歌に限らず音楽でも美術でも何でも同じなわけで、時代を通して受け継がれてきた芸術作品は、その時代時代に生きた他の時代とは異なる価値観、感覚、考え方を持った人々がそれでも残そうという意思を持って残されてきたものなわけだから、優れたものは時代を超えて不変の価値を提供するものなのかもしれない。

そう考えると、少し安心する。万葉集には僕の好きな歌があるから。例えば、

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れぬ山のしづくに

我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを

こんなことをしている間に、夏の夜は更けていく。そろそろ寝よ。