村上春樹と村上龍

昨日、日経新聞の春秋に村上春樹の読者にはアルバイトなど低所得者層が多く、村上龍の読者には経営者や管理職など、高所得者層が多い傾向があり、年収が上がるにつれて村上龍の読者が増えるという文章が載っていた。ちなみに僕はどちらかと言えば村上春樹の方が好きだ。現時点では僕は身分上は学生なので、年収はゼロ。当たっている。

村上龍の小説を僕はあまり沢山は読んでないけど、登場する主人公の傾向として、ブランド品を身につけ、高級車に乗り、いい女と寝るという生活をしている。また、それを自分のステータスとしているように思える。僕なんかにとっては非現実的な世界だ。小説自体は面白くて好きだけど、主人公はあまり好きになれない。まあ、これは多くの人がそうだろう。一方村上春樹の場合は、生活レベルとしては平凡な学生やサラリーマンが主役になっている。しかしながら、生活レベルが平凡とは実は定義ができない。それは実際は自己申告であって、具体的に年収がいくらかとかそういう話ではない。言ってみれば本人が生活には困っていないと言っているだけである。だから本当は平均より下かもしれないし、上かもしれない。ただ村上春樹の小説で共通しているのは、主人公たちはたとえ銀行の預金残高がゼロになっても大して気にはしないだろうということだ。本人がその状況を憂いて、「自分は貧乏だ。金が欲しい。」と言わない限りは彼を貧乏とは呼ばない。貧乏とは今もっているよりももっと金が欲しいと言っている(思っている)人のことである。だから年収が1億くらいあっても貧乏人になり得るのである。

多分普段は高所得者に対してお金がないことを憂いている人達(私を含む)は、村上春樹の小説を読んで貧乏の本当の定義を悟るのである。そして少し元気になるのである。今の社会を格差社会と呼びたい人は呼べばいい。金持ちと貧乏は自己申告制であり、年収で人の幸せは測れないのである。