江戸へと下って参ります

というのは落語の「御神酒徳利」に出てくる表現。当時は江戸へ「下る」だったんだね。現代の感覚だと「上る」だけど。まあ、当たり前か。何はともあれ日、月、火と東京へ行って参りました。要件は会社の内定式。前日から例によって姉貴の家に居候し、次の日は朝ゆったりと東京へ向かう計画を立てた。

日曜日、必要最低限の荷物を持って、会社と姉貴一家へのお土産(ケーニヒスクローネのお菓子)を持って颯爽と電車に飛び乗った。新幹線の中で読む本が「村上春樹にご用心」だけだと読み終えてしまいそうで心もとないので、前日に買った同じく内田樹先生の「東京ファイティングキッズ」、「映画の構造分析」が鞄に詰め込んである。行きの新幹線では「東京ファイティングキッズ」を取り出して、内田先生と平川克美さんの楽し気なやりとりを読む。平川さんの書簡にあった、内田先生の話は独特だけどまとも、という話に納得。なるほど、だから読んでて面白いんだ。

本の中で触れられていた、大学における「実学」の話は僕も昔から興味がある。あまり詳しくは知らないけど、漠然と、「実学」って要するに社会に出て就職したときに、即戦力として役に立つための勉強や研究に力を入れましょうって言っているように聞こえる。だとすると、それってそんなに重要なことだろうか、と思ってしまう。便利かもしれないけどね。でも多分、そういう考え方って受験勉強とか資格試験とかと同じ感覚ではないだろうか。つまり、知識の習得。言い換えると、知らないことを減らすこと。

受験や資格試験のような限られた時間で高得点を取ることを要求されるテストにおいて、最も有効な方法は、試験会場で問題用紙が配られたときに、初めて見る問題の数をできるだけ減らすことである。おそらくそのような試験勉強をしている塾や学校は多いと思う。でも、本当に社会に出て必要な力って、まだ見たことがない問題に答える能力ではないだろうか。受験や資格試験で求められるのは、既知の問題に既知の答を当てはめることや、一見未知の問題を既知の問題に還元する能力である。そういったものは全て知識を持っているかどうかの問題である。しかし、社会で仕事をするときは過去とまったく同じ事例なんて起こらないわけで、降りかかってくる問題はほとんど必ず(少くとも一部は)未知の問題だと思う(まだ働いた経験ないから断言できないけど)。この場合、未知の問題を既知の問題に還元して、その問題に対する回答を当てはめたらほぼ必ず失敗する。つまり、貯め込んだ知識を取り出すだけでは駄目なのだ。このような場合に必要なのは、むしろ未知を未知のまま取り扱うという思考方法であると思う。要するに、知らないことは知らないって言いましょうってこと。知らないのに知ってますって答えたり、他の似ているものに置き換えるのってあまり頭良くないと思うのだ。だって、今見ているものが何なのかわからない状態ってすごく不安なわけで、それに耐えらえる知的タフネスを持ってる方がよっぽど頭良いよね。その不安な状況に耐えて、見えてる部分から取りかかって全体像の見えない化石を掘るように問題を解決していく作業って、見えてる部分だけからそれが何なのか決定して、解決方法は知ってるぞって安心して仕事するよりずっと大変だと思うのだ。でも本来全体像の見えない問題って化石を傷つけないようにちょっとずつ掘るように解決していくしか方法はないと思う。化石の一部から、これは何々の化石であるからこのような形状をしているはずである、って決定してガシガシ掘っていくと、いつかゴツンって貴重な資料を壊すことになりかねない。安易な決定や断定を避けて、自分が間違っている可能性を常に考慮しながらちょっとずつ掘り下げていく、ためらいの姿勢が必要なのだと思う。

大学の実学の話からずいぶん遠ざかってしまった。まあ、要は社会に出て通用する力は、大学で詰め込んだ知識とは別の水準の話だっていうことが言いたかったのだ。多分。

東京ファイティングキッズ
内田 樹 平川 克美
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