私は身体で師を選ぶ

東京に来てから2日目は会社の内定式だった。小さい会社なので内定者全員ともう友達である。内定式は、まず社長の挨拶があり、内定書の授与、内定者の挨拶(少人数なので全員)と進む。間に昼食をはさんで、午後は入社前後の研修についての説明を受けた。社長の挨拶のなかに、「知識と知恵」という話があった。社会人は知識を所有しているだけでは仕方がない。それをいかにしてアウトプットし、仕事に活かしていくかという知恵の部分がとても重要なのだ。というお話。大変まっとうなお話だ。僕はまっとうな話が適切なタイミングでできる人が大好きである。

少なくとも今のところは、社長は大変僕好みの人である。「今のところ」はという限定を用いたのは、僕自身が自分の「師を選ぶ目」というのをあまり信用できていないからである。これまで、僕は偶然によって巡り会った師については大成功をおさめている。リアルな師としては、高校時代に通っていた塾の館長先生とか、ギター教室の先生。リアルな師弟関係になく、一方的に師と慕っている人物としては、内田樹先生とか、甲野善紀先生とか、内田先生の著書を通して一方的に知った人達。この師匠たちに共通するのは、僕が人に選んでもらった師であるということである。というわけで、僕は師を選ぶ人を選ぶ能力にかけてはいささかの自身がある。僕に向かって「先生を紹介してあげるよ」と言う人、あるいはそういうメッセージを僕に向けて発したと僕が勝手に受け取っている人が、信用できる人かどうかについての鑑定眼はどうやら正しく働いているらしい。ところが、僕は自分で師匠を探すとなると、その口先に手もなく騙されてしまう場合が多い。多分そういうときは身体からのメッセージを頭脳が排除しているのだと思う。身体レベルで拒絶反応を起こしているのに、頭で大丈夫と思い込もうとするから失敗するのだ。私の頭は私の身体ほどにはあたまが良くはない。ああ、この日記を書いている内に敗因に気が付いてしまった。想定外だ。

今思いついた(とは言っても僕のオリジナルではない。内田先生の言葉である)身体のメッセージという観点から考えてみると、確かに僕は師を選ぶ人を選ぶときは、その人がどういう人物かを学歴とか社会的地位とかのデータでとらえることは全くしていない。むしろ、その人と一緒にいる、話をする、その人の書いた本を読むという行為が、身体レベルで心地良い相手の意見を選択的に聞き取っている。

更に同じ観点から今回の会社選びについて考えてみると、今のところ大丈夫なようだ。今のところ大丈夫なら、これからのことはこれからの自分次第ということだ。以前までの失敗から、今回の選択もちょっと心配だったのだけど、むしろそういう心配が悪い結果を呼び込むのかもしれない。「過去はまだ去っておらず、未来はもう来ている」である。「『打たれたときは、それをもう忘れて、二つ先のパンチが相手にヒットしているときの感じ』を想定して、それを『現在』だと思う。(東京ファイティングキッズP56より)」というのが僕にも必要なのだろう。

さて、書き始めた時点で予定したこととは全く違う内容になってしまった。このエントリでは「僕はビジネス書が嫌いだ」ということを書くつもりだったのに。