孔子と雪かき仕事

最近村上春樹の言う「雪かき仕事」について考えていることが多い。人の目にとまらず、誰も知らないところで行われる誰の評価も受けない仕事。それでも社会の中では誰かがやらないと、その社会そのものが崩壊してしまうような重要な仕事。

先日、村上氏訳の「キャッチャー イン ザ ライ」を読み終えた。半分くらい内田先生の受け売りなんだけど、話の中で僕の一番好きな箇所が次の文章である。主人公のコールフィールドが、妹に将来何になりたいかって聞かれて答えたところ。
「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子どもをさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」
この文章を読んだとき、そういう仕事って大切だよねって思って溜息をついた。誰からも感謝されず、誰からも評価を受けない、でも大切な仕事である。

ところで、知っての通り論語の冒頭である「学而」の3番目の文章が、
「人知らずして綋みず、亦君子ならずや」
である。この部分で孔子は、実は「雪かき仕事」について述べているのではないかということに思い至った。「人の目に触れない、誰もその仕事のことを知らず、自分の名前も知らない、それでも重要な仕事がある。」と言っているように今では聞こえる。訪れた土地で、孔子の名前を誰も知らない状況に憤る弟子たちに、孔子がそう言って諫めたのだろうか。僕はこの部分の重要性が今までどうしてもわからなかった。先立つ2つの言葉に対して、この言葉はそれらと並べるほど重要なのだろうかと釈然としない思いでいた。人が自分の業績や名前を知らないことに憤らず、平然としていること。それが大切なのはわかる。でもそれって君子と呼ばれるほどのことだろうか、と。でも、今やっとその意味がわかってきた気がする。雪かき仕事は君子の所業である。孔子、偉大なり。