読むべき本は、いつも自分からやってくる

今日は中高時代からの友人、KKTと梅田で食事。ヨドバシカメラの食堂フロアでとんかつを食べる。いつも通り会社の愚痴を聞き、研究室時代の愚痴を聞いてもらい、来年から就職する僕へのアドバイスを聞く。その間に話は互いの将来、共通の友人、そして大学における研究の現状に対する問題提起や、会社では誰もやりたくないを引き受ける人がいるからこそ組織として成り立つのであるという方向へ進み、いたるところで右往左往し、結論の出ないまま紆余曲折する。とりあえず、内田樹先生の本を読めとアドバイスしておいた。

彼を阪神電車のホームで見送った後は、一人でジュンク堂書店に行った。レイモンド チャンドラーの「ロング グッドバイ」を村上春樹の訳で読み終えた後、昨日午前3時までかけてあとがきを読み、この「ロング グッドバイ」とフィッツジェラルドの「グレート ギャツビー」の原書を読んでみたくなったからだ。まあ、ジュンク堂に行けば大概の本は置いてあるから。目当ての本は見つかったけど、結局買わなかった。村上春樹訳の他の本を買おうかと思ってしばらく眺めていたけど、それも買わなかった。他にも色々と眺めてみたけど、今日は結局一冊も本を買わなかった。積極的に読みたい本がなかったからだ。3ヶ月に1回くらいの割合でこういうことがある。書店に行ってもどの本も買う気が起きないこと。

こういうときは、気長に待つことにしている。読むべき本が自分から勝手に僕の手元にやってくるまで。家にはまだ未読の本のストックがあるし、とりあえず読む本がなくなる心配はしばらくはない。大丈夫、どうせ本格的に読む本がなくなったらたった5分だってじっとはしていられないのだ。そのときは、いつもの通り駅前の書店へ猛ダッシュして、活字への乾きを潤すのである。これまでの経験からすれば、そういうときが一番次に読むべき一連の本との運命的な出会いが起こりやすい。活字中毒にも、たまには乾きが必要なのだ。