ひつまぶし

「ひつまぶし」という文字を見るとどうしても必ず一度「ひまつぶし」と読んでしまう。御飯のことについて書いてあるのを思い出して、よくよく読んでようやく「ひつまぶし」と正しく読むのである。ひまつぶし、ひまつぶし…、何で暇潰しなんだ?ああ、「ひつまぶし」か。といった具合である。これまでに幾度となく経験したことなのだけど、一向に直る気配がない。

小さい頃にはこうした間違いをよくしたものである。特に百人一首。「ひさかたの ひかりのどけき はるのひに」の「ひかりのどけき」は、「ひかり のどけき」であるが、これを「ひかりの どけき」だと思っていたり、「あきのたの かりほのいほの とまをあらみ」はどこで切れるのかわからなかったり、「やくやもしほの みもこがれつつ」が「焼くや 藻塩の 身も焦れつつ」だなんてわかるはずもなかった。長じてから学校でも古典を習い始め、ようやく意味がわかるようになってきた。小さい頃母から習って歌うようにして覚えた素読教育の名残である。意味もわからずただ声に出して覚えた古歌は、その後の様々な経験によって事ある毎に身体の内から自発的に意味を付加されて湧き上がって来るのであり、その意味は完成品として外から与えられたものとは異なる。和歌の解釈は確かに外から到来したものであるが、それは答の形をしていない。始めから答の形を成しているものは、本当の答ではないのである。それははじめ何の形もとらぬまま身体の中へと入って来(つまりまず迎え入れなければならない)、しかる後に身体の中に刻まれていた和歌に解釈を与えるが故に、僕はその和歌の解釈を自分で思いついたような錯覚を覚えるのである。思えば和歌にしろ他の芸術にしろ、現代語訳や解説を受けつけず、美術館では説明文を読み飛ばして作品だけを見て回る僕の性質は、これによって生まれたものなのかもしれない。いずれにしろ忘れてしまうのがオチの作品のデータは、自発的な知的好奇心によって学習意欲が生まれるものでもない限り、僕にとってはむしろない方が好ましいものなのである。