二度本を読むことについて

「私家版 ユダヤ文化論」を読み終えた。前回読んだときに比べると大分話がわかってきたようである。むしろ、前回読んだときにはわかったつもりで実は目が文の上の泳いでいただけで、今回読んではじめて「ああ、そういうことが言いたかったのね」ってわかったところが多いことに驚いた。

そもそも僕は本でも映画でも必ず一度目はぼーっと読んだり見たりする癖がある。多少わからないことがあっても「まあいいか、とりあえず先行ってみよう。んでもって後から考えよう」っていう感じで通り過ごしてそのまま読み終えてしまうのである。その分二度目は(二度目がないこともある)話の粗筋がわかっているので細部まで読み取ることができるので、前回わからなかったところを改めて考えたり、気付きもしなかったところに沢山気がついて、「何だ、こんなに面白いことが前回わからなかったのか」って言いながら楽しめるのである。あまり良い傾向ではないのではないかとたまに悩むことがあったこの癖だけど、考えてみれば僕の場合はこれで良いのだ。これは一度に沢山のことが同時にできない僕の性質に由来する癖であって、この癖によって僕は虻蜂とらずな状況を未然に防止していたのである。要するに、粗筋を追いながら同時に細部に気を配ったりわからないところを考えたりするとどれも中途半端になってしまうので、そういうことはせずに順番に片付けるようにしていたのである。しかもわからなかったことについては読み終えた後、他の本を読んだり何事か経験するときにアンテナが立った状態になっているので、二度目に読むときはわからなかったところに対する知識や経験が重点的に補充されていてより一層理解が進むというこの一石二鳥。どうよ。って自慢するほどのことでもないか。

ところで、これはわからなかった部分の意味が時間が経つ内に自然とわかるようになったということだろうか。それもあるのだろうけどちょっと違う気がする。我々は意味のよくわからない言葉について考えていると、いつの間にか、その言葉の意味がわかる前にその言葉の使い方がわかることがある。意味はわからないんだけど取りあえず間違わずに使うことができる。具体例を挙げよう。物理学をやっているとよく「系」という言葉がでてくるのだけど、これは(わかるまでは)大変わかりにくい言葉であって、初めて見たときには何のことだか全然わからなかった。このわからなさに耐えてそれでも物理学の本を読んでいると、いつの間にか自分が「系」という言葉を使って話ができるようになっていることに気がつく。「系」とは何ですかと問われてもうまく答えられないのだけど、取り敢えず「系」という言葉の使い方だけははっきりとわかっていて、しかも使い方を(全く!)誤らずに話すことができるのである。このように、自分の語彙になかった言葉はまず(「系」は「系」ですとしか説明できないけれども)自分の語彙に登録される。そうして使っている内に、今度は「系」という言葉の意味を他の言葉を使って説明できるようになってくるのである。二度目に本を読むというのも似たようなものであって、一度目読んだときに「あれよくわからなかったなぁ。一体何だったんだろうなぁ。」って煩悶しながら他の本を読んだり色々な経験をしていると、いつの間にかそのわからなかった部分の言葉を使って話せるようになっていて、二度目を読んだときにはその言葉を使って語られていることが理解できるのである(自分には同じ言葉が使えるのだから当然である)。というところまで書いてみると、同じようなことがこの本の中にも書かれていたことに気がついた。この時点でようやく僕は、その部分で語られていたことがどういうことだったのかわかったのである。二度本を読むって大切でしょ。

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)