秋のALICEとYesterday

季節は秋である。本格的に秋物を取り出し、起きてから寝間着のままでいると寒く感じるようになってきた。秋と言えば、僕の好きな歌に「秋止符」(「終止符」と同じ読みをする)というのがある。若い人は知らないだろうな〜。古い歌で、70年代フォークソンググループのALICEの曲だ。当然25歳の僕がリアルタイムで聞いているはずもなく、偶然家にあったテープを偶然聞いて好きになったのであった。

歌の舞台は秋だけど、出来事は夏から続いている。恋人にふられ、別れの手紙を受け取った男が、これから寒くなっていく季節を一体一人でどうやって過ごそうかと、夏の出来事を悔やんでいる曲である。具体的に夏にどのようなことがあったのかは触れられておらず、恋人も左利きであったことくらいしかわからない。サビの最後の「今年の秋はいつもの秋より 長くなりそうな そんな気がして」という部分が、言葉で表現できない男の心情をリアルに描いている。

よく考えてみると、この歌はビートルズのYesterdayに似ている。この歌は、ずっと先のことだと思っていた彼女との別れが突然昨日という日に訪れて、ふられた理由もよくわからず、昨日に思いを馳せて途方に暮れるという歌であった。2つの歌に共通する部分は、肝心なことがほとんど何も語られていないということである。歌っている自分は誰なのか、別れた女性はどんな人だったのか、別れた理由は何だったのか、等々。心理学や精神分析(フロイトとかラカンとか)の世界ではよく知られている通り、そこに何かがあるということを最も強く主張するためには、それに覆いをして隠してしまうことが一番効果的である。それが見えないために激しくそれに欲望を駆り立てられ、魅きつけられるのである。この歌の場合は、多くを語らないことで、そこで何があったのか聞く側の好奇心を沸き立てる。しかしながら、これらの過程は全て無意識に行われるためその欲望が前景化することはない。したがってこの歌を聞く人は、この歌に欠けていて説明のつかない部分があることに気がつかない。しかしながら、人はそういうものをそのまま受け入れることはできない。意識に登るときにはそれらに説明がついていないといけないのである。そこで、欠けているため説明のつかない部分は、無意識の内に自分で説明を補って聞くことになる。そこで、多くの人はこの歌を聞きながら、その欠けている部分に自分自身の経験を当てはめ、自分の過去の再生成を行うということをする。そして聞き手は、これらの歌がなぜか自分のことを歌っているということを発見して驚くのである。そんなはずはないのに、なぜか自分の過去を歌っている自分の歌として、これらの歌を認識するのである。一方、恋人と別れた経験を持たない人は恐らく、端的にこれらの歌が何を言いたいのかよくわからないものとして受け取るのではないかと思う。

僕がYesterdayを初めて聞いたのは高校生の時で、実は初恋の女性と別れた直後だった。当時は何が悪かったのかよくわからなかった(今ではよくわかる)。別れることなんてないだろうと思っていた矢先に別れたのであった。ある日の朝学校へ行く前にラジオを聞いていると、クラシックの番組なのになぜかビートルズ特集をやっていた。クラシックの演奏家によるビートルズという趣旨だった。そこで聞いたYesterdayが気に入って、歌詞を訳してみたところ、「何だ、これは僕のことじゃないか」と驚いたのである。秋止符の場合のキーポイントは、歌の出だしの「左利きのあなたの手紙」だった。その女性が左利きだったからである。もうこの歌は僕のことを歌っているようにしか聞こえない。僕のことを歌った僕の歌である。個人的には。しかも別れたのは9月。「あの夏の日がなかったら 楽しい日々が続いたのに」である。その年の秋は確かに長かった。