古典回帰

関西圏の大学のクラシックギター部では、古典作品が再び好まれているらしい。古典作品と言っても、クラシックギターの歴史はそう古くないので、せいぜい19世紀から20世紀初頭にかけてのスペインの作品だけど。グラナドスとかタレガとかのことだ。「アルハンブラの思い出」は多くの人が名前くらいは知っているところだし、ピアノを弾く人は「スペイン舞曲」を知っているかもしれない。昔セゴビアによって演奏された「グラナダ」は現代においてもまごうことなき名録音である。

一方、僕がギター部に所属していた頃とそれから数年は現代音楽が好まれていた。ドメニコーニ、ディアンス、クレンジャンスといった辺りだ。現代曲が天才的に上手かったカリスマ的な人がいたのがブームの原因だし、木村大の存在も大きかったと思う。別にこれらの曲が好まれること自体に問題はないのだけど、古典作品(バッハやソルも含む)が正当に評価されていなかったことは大変重大な問題であった。一見地味で飾り気のない古典作品の小品は簡単な曲とされ、派手で技術的レベルの高い難曲がもてはやされていた。皆の関心は左手の技術にあり、本来最も重要であり、音楽性を表現するものであるところの右手の技術は軽視されていたようだ。大きな音が出せるとか、速い音階が弾けるとか、そういう純粋な技術的な問題は関心事であったようであるけれども。それと平行して、自らの音楽性や感受性を磨くという方向に皆の関心が向かわなかったのが残念である。結局のところあの時期に足りなかったのはそういったものを含めた表現力であった。これもまた、ピアノとかフォルテとか、強弱記号をデジタルにアウトプットすることにのみ力が注がれていたようで、自分の内面から湧き上がってくる感情を表現するのだということは、音としての言葉でのみ情報としてインプットされていたに過ぎない。総じて当時僕が聞いたほとんどの演奏は、端的につまらないものであった。

その中にあって、そういったものがわかっていた人もいた。特に、同期の友人の弾いたソルの「マルボロの主題による変奏曲」は、現役時代に聴いたものの中で最高のものである。僕も当時はそれなりに自信があったのであまり素直に認めることができなかったのだけど、今にして振り返ってみれば当時の彼は僕を含めた他の誰の追随をも許さないレベルまで到達しており、連盟の中でも最高の弾き手であったことは全く疑いの余地がない。その半年前くらいまでは彼と競い合っており、ほぼ同等のレベルにあったと思われる僕も、その時点では彼のはるか後方に置き去られていたのである。もう一人の素晴しい弾き手は、神女の同期の友人であった。僕らが四回生の頃に彼女が定演で弾いたソルの「グランソロ」は、まったくもって驚くべき演奏であった。これまでに聴いたアマチュアギタリストの演奏の中で、彼女の「グランソロ」を超えるものを僕は知らない。技術力、音楽性どれをとっても申し分なく、彼女は僕などが想像も及ばないはるか高みまで逹しているらしかった。彼女は僕を高く評価してくれているようだけど、僕などその足元にも及ばないものである。

と言うような話を、今日ギター教室で帰り際に先生とした。東京に行く前の残り少ないレッスンの回数に、つい感傷的になって長居してしまうのである。ところで、僕はと言えば2回生の後半から3回生で引退するまでの間の長い低迷の後、ようやくぼちぼちレベルアップしてきたらしい。自分ではあまり実感がないのだけど、部活で練習していた3年間よりもそこからの1年間の伸びの方が大きいと先生からは言われている。確かに部活のしがらみから開放されて、思えばギターを弾くのが心から楽しいと思ったのもそんな時期であった。大学院での多忙な生活のため練習できない日々が2年間続き(その原因のほとんどは心理的なものである。時間は作るものであるから)、現在に至る。今はその心理的抑圧からも開放され、僕の時代はこれからだと思う気持ちと、そんな日来るわけないかという気持ちと、相反する思いを半々に抱きながら、ただギターを弾き続けるだけである。