前言撤回の人生

科学的思考の本質は前言撤回にあることに気がついた。正確には気がついたというのは嘘である。色んな人が言っていることややっていることの意味がわかったというのが正しい。

ニセ科学がなぜ科学ではないかというと、それが科学的事実と異なっているからではない。それらが反証不可能であるからである。「科学的理説を支えるのは反証可能性である」というのはカール ポパーの言葉であるが、これは全くその通りであって、科学的理説というのは将来にわたって反証され得る可能性を含んだ形で未来に向けて開かれていなければならない。有名な事例を挙げれば、ニュートン古典力学相対性理論量子力学によってその適用範囲外の部分を(今のところ)正しく記述するように内包される形で置き換えられたように、科学理論の発展とは正しい理説の上に新しく正しい理説を積み重ねて成されるものではなく、正しいと思われていた理説を反証し、その理説の正しい部分を包含する形で新しい理説を構築する、この前言撤回の繰り返しの内にあるのである。そのため反証することすら不可能である理説はその時点において科学理論たる資格を得ないわけであり、このことは「この論文は間違ってすらいない」というパウリの有名な言葉の内に最も強烈に語られているのである。改めて言うまでもなく、この基準に照らせばニセ科学は自らの理説が正しいことを前提としてその後の議論がなされるため、最早間違ってすらいないのである。ということはどうやら既にカール ポパーによって語られているようだ。せっかく面白いことに気がついたと思ったのに。

この話は、実は甲野善紀先生の身体術を理論的には説明できないので正しくない、と言う科学者がいると先生ご自身の著書のなかにあったのを思い出して、現在の理論で説明できないから目の前で起きていることを否定するという人がどうして科学者をやっていられるのかという話を何とか上手く説明できないかと思っている内に思いついたのである。まともな科学者ならば目の前で現実に起こっていることや、実験事実に対してはとても真摯なものである(それ以外のどんな科学者がありえるというのか)。僕が今まで物理学を教わってきた先生方は皆その意味でまともな科学者だった。ただ甲野先生と多少意見が異なる(かもしれない)のは、僕は優れた科学のセンスを持っている人ほど科学の限界や適用範囲について正しく認識しているものであり、科学で語れるものと語れないものとを的確に区別して何でもかんでも科学で説明しようとはしないものであると考えている。経験的には文系の学部の学生ほど科学の適用範囲を誤解している人が多いように思う。というわけなので、甲野先生にももう少し、科学者(と名乗る人ではなく、本当の科学者)を信用して欲しいなぁと思うのである。

この前言撤回の方法は人生においても通じるところがある。甲野先生の本を読む度に、「はじめの内は私の話を信じてくれない人が云々」と書かれているのでそこでようやく気がつくのだけど、考えてみると僕は甲野先生の話を疑ったことが一度もない。はじめに手に取った一冊を読み始めたその時点から、「この人の話は信用できる」という確信を得たのであった。考えれば考えるほどこれは変な話であって、まだ術を体験する前から武術やスポーツや介護の話は本当であると確信したわけで、図説の本を読みながら自分で試してみて、「確かに楽だ」と信用を深めたのは事後の話だったのである。おそらく僕は、甲野先生の「前言撤回の姿勢」を信用したのだと思う。世の中には、同じ話題で何冊もの本を書いていて、書かれていることが一つに閉じている本と、同じ話題で書かれていても書かれていることがどんどん新しくなっていく本とある。甲野先生の本は明らかに後者である。ご自身の現在の考えや現在の術を人に教えたり本に書いたりしながら、自分自身はそれらを端から捨ててもう新しいことに取り組んでいる。自分の発見や発明に固執していつまでもそれを言い続けるのではなくて、それらをどんどん捨てながら前言撤回を繰り返す知性と行動のあり方を、僕は信用したのである。

思えば内田樹先生の言葉を初めてブログを見たその日から信用し、その後何冊もの本を読むことになったのも同じ理由であった。内田先生や甲野先生のお話から僕が受け取ったメッセージは、「答はここにはないよ」である。「答は私が知っています。それをあなたに教えてあげます。」という本がほとんどの現代にあって、「答はここにはないよ」とはっきりと言い(僕ははっきり聞きとった)、前言撤回を繰り返しながら自ら進化し続けるこの二人に僕はとても魅かれるのであり、その姿勢を信用するのである。僕はこの二人の本を読んで、「その話は前にも聞いた」と思ったことがない。全く同じ文章であってもである。それは、以前読んだときと次に読んだときとで自分が別人になっているからである。これは、その文章自体が「違う人が違うときに違う状況」で読むと異なるメッセージを引き出してしまうようなものであるということでもあり、僕はこれを開かれた文章と呼ぶのである。しかもそれは、出発点とゴール地点が存在して、その2点間のどこにいるかで異なるといったものではなく、ゴール地点の存在しない無限に向かって開かれていると言う意味で開かれていると呼ぶのであって、その開かれた知性のあり方を僕は学びたいと思うのである。というところまで考えて、お二人の対談本である「身体を通して時代を読む」を読み返してみると大体同じことが既に書かれてあった。その人について語る言葉がその人から既に与えられているというのは実に奇妙な感覚である。と似たようなこと(ちょっと違うかな?)が「レヴィナスと愛の現象学」のあとがきに書かれていた。

身体を通して時代を読む (木星叢書)

身体を通して時代を読む (木星叢書)