徹夜阿房面接

バイトの面接を受けてきた。徹夜明けで面接である。いくら何でも無謀というものだが眠れなかったものは仕様がない。電車を乗り継いででかけてきた。

家にいるときから余程ふらふらする。頭は朦朧とし、立ち上がると足が崩れそうになるのを堪えて髭を剃り、歯を磨き、顔を洗ったら少しはすっきりした。「うがい手水に身を清め」だ。落語の紙屑屋だね。何を着て行くべきかと考えたけど、面接だからやはりスーツだろう。大欠伸をしながらもそもそと着がえる。ワイシャツは、襟首が大分汚れているぞ。しわしわだし。クローゼットをひっかき回したらクリーニング済みのが出てきたのでそれに着替えた。それにしても久々に着てみるとやけにぶかぶかだな。仕方ないか。高校時代陸上部で鍛えた肉体に合わせて買ったスーツだからな。ベルトが、何だ、一杯に締めてもゆるゆるじゃないか。何とか上着で隠してと。ネクタイは、何か趣味が悪いな。これじゃあスーツで行く方が余程逆効果じゃないか。それでもこれしかない。まともな方のスーツは姉貴の家に置きっ放しだから。鏡に映った自分の姿に諦めの溜息をつきながら、仕方がないのでそれででかけた。

それでも駅まで着く間にはそんなダッサイ格好でもまあいいかという気分になってきた。住めば都、着慣れれば一張羅である。電車はこんなときに限って満員。掴まる吊革もないとはこのことだ。大分もう既に頭痛と吐き気が酷くなってきたけど忍耐は美徳と堪え忍ぶ。梅田に着くまでに内田百けん先生の「第一阿房列車」を読む。

電気機関車の鳴き声は曖昧である。蒸気機関車の汽笛なら、高い調子はピイであり、太ければポウで、そう云う風に書き現わす事が出来るけれども、電気機関車の汽笛はホニャアと云っている様でもあり、ケレヤアとも聞こえて、仮名で書く事も音標文字で現わす事も六ずかしい。

という辺りでもう笑いを堪え切れなくなってきた。それでも何とか忍耐は美徳と堪え忍び、十三を通り過ごしたのだけど、「ちッとやそッとの」のくだりで限界に逹してしまった。同行のヒマラヤ山系が「ちっとや、そっとの」と言ったところで話が途切れてしまったので、線路を刻んで走る歯切れのいい音が「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」の聞こえだしたらしい。

汽車に乗っていて、そう云う事が口に乗って、それが耳についたら、どこ迄行っても振るい落とせるものではない。「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」もう蛙なぞいない。今度着くのはどこだろう。お酒がないだろう。
ちッとやそッとの、ちッとやそッとの「山系君」
「はあ」
ちッとやそッとの「お酒はどうだ」
口に乗り、耳に憑いたばかりでなく、お酒を飲み、佃煮を突っついている手先にその文句が乗り移って、汽車が線路を刻むタクトにつれ、「ちッとやそッとの」の手踊りを始めそうになった。
「ちッとやそッとの、こう手を出して」
「何ですか、先生」
「ちッとやそッとのボオイを呼んで」

もう笑いが止まらない。その内阪急電車のリズムまで「ちッとやそッとの、ちッとやそッとの」に聞こえ出した。「ちッとやそッとの、もう十三か」「ちッとやそッとの、ようやく中津」「ちッとやそッとの、梅田に着いた」。梅田に着いた。

これから地下鉄に乗り換えてもう暫くの場所だ。あと30分もかかりそうにない場所なのに、約束の時間まであと1時間以上もある。できることなら早く終わらせて家に帰って寝たかったので、ちょっと早く家を出たのだけど、これはちょいとやり過ぎか。地下鉄に乗った。あと55分。最寄り駅に着いた。あと50分。元気だったらその辺を歩き回って時間を潰すのだけど、何分徹夜明けなのでそういうわけにもいかない。仕方がないからゆっくりゆっくりと歩いて店へ向かう。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、着いた。あと30分。他にどうにも仕様がないので店に入ってバイトの面接に来ましたと言う。「お早いですね、じゃあ予定より早いですけど始めましょうか。」とはならない。「すみません。30分ほど店内を見て回って時間を潰してもらえますか。」あ、はい。店内をぶらぶらしながら、そういえばどういう経緯でバイトをすることにしたのか説明を全然考えていなかったことに気がついた。店員さんの動きを見ならがお客さんとの会話が耳に入る。段々自分が持ち合わせている知識では役に立たないのではないかと思われ始めた。段々面接が心配になってくる。一体どんな知識が要求されるんだろう。もっと経験がないと駄目かな。もしかしたらブラインドとかやらされたりして。そんなことになったら一発でアウトだよ。とかここまで来て恐れ恐れ待っていると、ようやく呼ばれた。面接は3対1でごく普通だった。相手が自分にどんなことをして欲しいと思っているかは大体わかっているつもりだ。こちらは元々それに答えるような仕事をするつもりなので、僕は「心配には及びませんよ」と説明するだけだ。バイトで店員の経験がないのが唯一難しいところだけど、好きなことだし、大丈夫だろう。

面接が終わって、家に着くころにはもうふらふらになっていた。どうして最近試験とか面接とか全部寝不足とか徹夜明けとかで受けてるんだろう。基本情報技術者も免許の学科試験もバイトの面接も。あの2つはそれでも2時間とか3、4時間とか寝てから受けたからまだ良い方だ。今回の徹夜はもう本当に応えた。「ちッとやそッとの、睡眠くらい」「ちッとやそッとの、とればいいのに」「ちッとやそッとの、後悔ばかりで」「ちッとやそッとも、学ばない」。

第一阿房列車 (新潮文庫)

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