読後記-第一阿房列車

「第一阿房列車」を読み終えた。明日から何を読んで暮らせば良いのだ。面白い本を読むときはいつもこれだから仕方がない。どんどんページをめくるのは良いが終わりが近づくにしたがって楽しみでもあり寂しくもある。こうなったらもう第二阿房列車も第三阿房列車も読む以外にあるまい。このようにして僕は自分が好きになった作家は手に入る本を端から読まないと気が済まないブルドーザー型読者であったことに気がつくのであった。
しかし百けん先生の本は図書館で探したら山程見つかるだろう。調べてみたらこの文庫本5冊分程度で1巻として全集が10巻ある。流石にこれに手を出したらちょっと大変なことになるな。そういう義務感で読むのはよろしくない。気が向いたら制覇の旅に出るかもしれないけど制覇してしまうとそれはそれでまたつまらなくなるので止そう。そもそも(この接続詞よく使うな)全集というのは便利だけれどもそうやってまとまってるのははなはだ面白くない。これがこの人の全てですって言ってどんとそこに置けるほどコンパクトにまとめてしまってはいかん。あっちへちょこちょこ、こっちへちょこちょこ散在したままにしておく方がその人の活動の幅広さや人間的スケールがわかるというものだ。それを一箇所に並べて目録を作ってしまうのは早送りで映画を見て見た気になっているようなものではないか。よって全集というものは研究者が時間を無駄にしないようにするためにのみ存在するべきである。え?何?始めからそのためのものだろうって?